50歳陳列棚製造会社営業部長のクモ膜下出血死事件(大島事件)をアップしました
行政訴訟・民事訴訟を闘う中、労働保険審査会で逆転認定
──50歳陳列棚製造会社営業部長のクモ膜下出血死事件(大島事件)
大島照代さんの夫・秀敏さんは、東大阪市内の陳列棚製造会社S製作所で20年以上にわたり営業職として働いてきましたが、1998年5月会社でクモ膜下出血を発症し、その後亡くなりました。秀敏さんは毎朝午前7時過ぎに出勤し午後9時に退勤する生活をずっと続けており、疲れ切った様子だったことから、照代さんは労災申請を行いました。
会社にはタイムカードがあり、それによれば発症前4か月間の時間外労働時間は80時間を超えていましたが、会社社長は「秀敏さんは毎日夕方以降は会社にはいたが、酒を飲んでいて仕事はしていなかった」と主張し、同族会社の役員や従業員らもこれに口裏を合わせたことから、業務外とする決定がなされ、審査請求も棄却されました。
私は再審査請求段階の2002年4月から弁護団に参加することになり、弁護団での議論を経て、①会社の取引先や元同僚にお願いして、秀敏さんが夕方以降も仕事をしていたことを証言する陳述書を書いてもらい、労働保険審査会にその内容を確認するよう調査を申し立てる(2002年6月)、②再審査請求中であるが国に対する不支給処分取消の行政訴訟と会社に対する民事訴訟を同時に提訴する(2002年12月)、③東大阪労連に働きかけて「支援する会」を結成してもらう(2003年2月)、という3つのことが実行されました。
3つの取り組みはいずれも功を奏し、民事訴訟で満席の法廷で1回目の証人尋問(2004年11月1日)を行った直後の2005年1月7日、労働保険審査会は不支給処分取消しの裁決を行いました。それを踏まえて行政訴訟は取下げ、2005年10月民事訴訟で和解が成立し、事件は全面勝利で解決しました。
照代さんは、この闘いのために、秀敏さんの死後に戻っていた徳島から出て東大阪にマンションを借りて常駐し、協力してくれる人を探したり、会社の前で見張って毎晩遅くまで仕事が行われていることを確認するなど、執念の頑張りを見せました。この照代さんの頑張りと弁護団の取り組み、支援する会の支援が一つになって、素晴らしい結果につながったといえます。
照代さんは、大阪過労死を考える会に参加し、諦めない勇気と希望をもらったことから、その後同じように労災申請などに取り組む人たちを支援していましたが、ついに2018年10月20日「東四国過労死等を考える家族の会」の結成にこぎつけ、その初代代表となりました。
<大島照代さんからの一言>
岩城先生と大阪過労死家族の会に感謝 大島照代
夫は1998年、長時間労働を続けた結果クモ膜下出血で亡くなりました。
夫はたった1人の営業職として、昼休みに近所の診療所で栄養点滴を打ちながら勤務していました。二度倒れ救急車に運ばれたことがあり、夫も私も会社に何度も人員増をお願いしましたが実現されず、ついに三度目の救急車で、夫は帰らぬ人となりました。
夫が亡くなって1年後のお彼岸に疲れ果てた夫の夢を見たその日、私は労災申請することを決意しました。
しかし、労働基準監督署からの通知は「業務外」でした。友人から「過労死家族の会」と「過労死弁護団」があるらしいと聞き、過労死弁護団の先生にお世話になることになりました。会社のウソを証明するため会社の近くに小さなワンルームマンションを借り、徳島から大阪に出てきて1年10か月過ごしました。
当時の私の体調は非常に悪く、表情はとても暗かったそうです。そんな私にとって、月1回の大阪過労死家族の会の例会は温かく、希望でした。当時例会に出席されていた方々の大阪、兵庫、京都、和歌山、福岡の裁判は全て傍聴しました。裁判の後の岩城先生の明るく、温かい優しさにどれ程救われたかしれません。岩城先生は当初私の弁護団ではありませんでしたが、弁護団にお願いして岩城先生に弁護団に加わっていただきました。証言して下さった方は、昔から岩城先生と知り合いであったかのように、「岩城先生と気が合う」と喜んで私の無理な裁判についてのお願いを聞いて下さいました。とても手が届かなかったであろう労働保険審査会で労災と認定され、民事裁判は和解で終了致しました。
岩城先生のおおらかな性格、発想が、これからも色々な場面で重い扉を開いていかれると信じております。
2005年に裁判が終わってから、色々な方から徳島で「過労死を考える家族の会」を作るようにと言われながら、私の体調不良や気力不足でなかなか足を踏み出せていませんでしたが、2018年10月、ようやく「東四国過労死等を考える家族の会」(香川、徳島)を結成することができました。お世話になった大阪家族の会と岩城先生への恩返しの気持ちも込めて、今後過労死等の被害者の相談窓口となり、また啓発シンポジウムの充実や過労死啓発授業の実現に向けて努力していきたいと思います。